「視点を変えれば逆境も楽しく!」 大塚 美絵子


              「視点を変えれば逆境も楽しく!」 大塚 美絵子

今回は、弾性スリーブやストッキングを扱う「リンパレッツ」代表の大塚美絵子さんをお招きしました。
自身も、ステージⅢCの卵巣がんを経験したという大塚さん。抗がん剤治療や手術に耐え、無事治療を終えたものの、体力低下や足の痺れに悩み、社会復帰は思うように進みませんでした。そんななか、「残された時間を楽しもう」と、海外旅行に出かけたドイツで、弾性スリーブやストッキングを試着、相談しながら購入できるお店と出会います。当時、積極的に参加していた患者会や勉強会でも、リンパ浮腫に関する悩みをよく耳にしていた大塚さんは、ドイツで出会ったお店をヒントに、リンパ浮腫の人達を応援するお店「リンパレッツ」を立ち上げました。
現在は、商品の提案だけでなく、復職支援や社会保障に関する情報を提供し、がんサバイバーや、リンパ浮腫で悩む多くの人の駆け込み寺となっている大塚さん。今回は、大塚さんの前向きな思考のルーツを探ります。

enStylers:リンパ浮腫とともに、自分らしくstyleをもって生きるひとたち

 

リンパレッツ公式HP:
https://www.lymphalets.biz/

ご出演動画:
https://www.youtube.com/watch?v=snHVCkq4VjQ&list=PLPRu1xGzLHRtFkFoXvM5m2ITn3hZWEc5Y&index=3

 

 

広い世界を知りたかった幼少期

encyclo Style 編集部(以下、編集部)

大塚さんのブログを拝見していると、楽しいことはもちろん、辛いこともユーモア混じりで表現されていて、とても人間味のある、チャーミングな方だと感じました。そのルーツを探るため、まず大塚さんの幼少期のお話を聞かせてください。 

 

大塚美絵子さん(以下、大塚)

小学生のころにアポロの月面着陸をTVで観たり、大阪万博に行ったり、世界に触れる機会があったから、物心ついたときから漠然と、「世界のことを知りたい」と思っていましたね。 

 

大阪に住んでいた小学生の頃。
この頃の体験が、その後の進路にも影響を与えました。

 

中学2年生のとき、父の仕事の都合で大阪から埼玉に引っ越しました。父は私を「上品な女の子に育てたい」と考え、いわゆるお嬢様学校に入れたんですが、実際には、良い意味で親の期待と異なる校風の学校でした。  

男女共学だと、生徒会長とか委員長になるのは男の子が多いですよね。でも、女子校だと生徒会長もクラブの部長も全部女子。行事も全部女の子たちだけで運営しなければならない。 

知らず知らずのうちに自主自立の気持ちが芽生えました。女の子でもトップに立てる。でも、トップが偉いわけじゃなく、それぞれがやりたいことや挑戦したいことを自主的に決めて、応援し合える校風でした。進路も、医学部から音大、なかには宝塚に進む生徒までいましたね。 

 

中学校の校門の前で。
厳しい学校かと思っていたけれど、すごく自由でした!

 

 

編集部

さまざまな進路を選ぶ生徒がいるなか、大塚さんはどのように進路を選ばれたのですか? 

 

大塚

最初は、幼いころから習っていたピアノで、音大への進学を考えました。でも、音大を目指すには実力が至らなくて。次に、音楽事務所や翻訳など、クラシック音楽に携わる仕事をしようと思い、ドイツ音楽が好きだったことから、ドイツ語を学べる外国語大学に進学しました。 

でも、大学で学ぶなかで、「音楽を仕事にできる人は一握りだし、趣味として携わる方が幸せかな」と思い始めて。そんなときに心の中で湧き上がってきたのが、幼いころから抱いていた世界への興味でした。「外交分野なら、得意な語学を活かせる」と思い、外交官を目指して法律や経済も学び始めました。 

でも、外交官試験の一次試験は受かったものの、二次試験は残念な結果に終わってしまって。就職しないわけにいかず、ドイツ系の長期信用金庫に就職しました。 

 

 

寿退社が当たり前の時代でも働き続けた理由

編集部

大塚さんが就職された1984年は、男女雇用機会均等法施行(1986年)前ですよね。当時、女性が正社員として働く環境はどのようなものでしたか? 

 

大塚

正社員でも、女性というだけで男性社員の補助的業務しかさせてもらえませんでした。女性社員のほとんどが2~3年で寿退社する時代で、キャリア志向の女性は正当に評価されなかったですね。学生のころは、女の子でも意志さえあれば何だって挑戦できたのに、驚きました。 

 

編集部

新卒で入社した会社を退職した大塚さんは、その後、翻訳の仕事や公務員受験の予備校講師をしながら、司法試験に挑戦し続けたそうですね。なぜ、同年代の多くの女性が仕事を辞めるなか、大塚さんは挑戦を続けられたのでしょうか? 

 

大塚

私の父は、「女性を家庭に閉じ込めるのは当たり前」という古い考えの人でしたが、専業主婦だった母の本心は、家のことだけしていたい訳ではなかったんです。でも、外で働いていない以上、母にはお金がない。だから、子どもに何か買ってあげたくても、父にお願いしてお金をもらうしかありませんでした。 

母の本心と現実のギャップを間近で見ていた私は、「自分の道は自分で開拓したい」と思いました。そして、そのためには「結婚しても仕事を続けて、経済的に自立しなければ」と考えたんです。 

司法試験に挑戦したのは、私が社会人になってすぐに父が亡くなり、母と私と妹だけになったとき、親戚から「女だけじゃ信頼できないから、早く結婚して身を固めろ」と言われたのがきっかけです。「こうなったら、女だからって誰も文句を言えないくらいの資格を取ろう」と思って。 

 

 

努力と挫折の日々

編集部

その後、10年間司法試験に挑戦されたと。 

 

大塚

司法試験はまさに挫折の連続でした。10年経ち、司法試験は諦めて公認会計士を目指そうと考えましたが、かなり難関で。それなら、米国公認会計士(USCPA)の方が可能性があるし、英語スキルのアピールにもなると思いました。 

コンサルティング会社のアルバイトをしながら、USCPAと日商簿記2級、そしてビジネス実務法務検定2級を取得して就職活動を再開し、2006年に大手監査法人に就職しました。 

 

編集部

新卒時代と比べて、働きやすさに変化はありましたか? 

 

大塚

個々の会計士は個人事業主のようなもので、プロジェクトにアサインされないと仕事がありません。周りの人は、46歳で入社した私に声をかけづらかったのか、英語の仕事以外はあまり回って来ませんでした。 

私にも、「分からないところは周りが教えてくれるだろう」という甘えがあったのは事実です。でもある日、公的機関の情報を元にプレゼン資料を作ったら、上司から「ウィキペディアの内容と違う」と叱責されて。そのとき、「今まで働きづらさを感じていたのは、上司が私をいじめたいからだったのか」と分かり、すごくスッキリしました。会社を辞める決意が固まりましたね。 

 

 

たくさんの人の支えを実感したエンディングノート

編集部

大塚さんは、監査法人を辞める直前に、ステージⅢCの卵巣がんが発覚したと伺いました。診断が下りてから治療が始まるまでの約20日という短期間で、エンディングノートを綴られたそうですね。 

 

抗がん剤治療が始まり、体調が最悪だった頃。
「いつ死んでもいいように」という覚悟で、母校のお御堂で急遽洗礼を受けました。

 

 

大塚

エンディングノートを綴ろうと思ったのは、父の看病の経験からです。父ががんになって1年半、母はこれ以上ないというほど献身的に看病しましたし、妹も私も22~23歳という楽しい時の大部分を父の看病に捧げました。それでも、父は一度も「ありがとう」と言ってくれなかったんです。 

父が旅立った後も、「自分がした看病が気に入らなかったのかな」、「家族や夫婦って、何かをしてあげるのが当たり前になるのかな」と、10年くらい悩みました。自分ががんになったとき、父の看病の経験を思い出して、「私は感謝すべき人に、ありがとうを伝えておきたい」と思ったんです。 

もう会えないかも知れないと思いながら、主治医や看護師、家族、そして友達に感謝の言葉を綴りました。すると、支えてくれた人や、してもらったことが次々と思い起こされて、「私、こんなにたくさんの人に支えられていたんだ」と実感しました。 

その途端、死の気配を感じていた自分のなかで、「大丈夫だ、死なない」と、意識が変わって。「まだみんなにお返しできていないし、ここで簡単に死ねない」と思うようになったんです。 

 

 

孤独に苛まれた治療卒業後の日々

編集部

その後、辛い抗がん剤治療や手術を乗り越え、治療を卒業されたとのことですが、治療卒業後の生活はどのようなものでしたか? 

 

大塚

治療卒業後も、体力低下や貧血、足の痺れで15分以上歩けませんでした。体調は全く戻っていませんでしたね。 

でも、治療が終われば外見は普通だから、周りからは「普通に働くこと」を期待されます。私自身も、「治療が終われば、社会復帰するぞ」と思っていたので、自分や周りの期待値と、期待に応えられない現実の差に、かなり苦しみましたね。治療後は、まさに「生物学的には生きてるけど、社会的には死んだも同然」の状態で、すごく孤独を感じました。 

 

編集部

大塚さんは現在、治療卒業後から社会復帰までのサポート体制の必要性を色々なところで訴えられていますよね。どんなサポートがどのタイミングで必要だとお考えですか。 

 

大塚

闘病期間内のサポートは充実していますが、治療終了後のサポートが不足していることが問題だと思っています。これは、治療成績が飛躍的に向上したからこそ顕在化した問題なのですが、いまや6割以上の患者が5年以上生きるわけですから、治療後の人生の充実は大きな社会課題です。 

イギリスでは、治療卒業から社会復帰までの期間に通える、専門のクリニックがあるそうです。一方、日本では、治療卒業後は月一回程度の経過観察になるので、周りの人は「退院したし、もう大丈夫でしょ」という感覚になる。まずは社会として「がんは長期的な慢性疾患だ」という感覚を持たないと、患者は周囲の期待と現実のギャップに苦しみます。 

社会の理解を促すには、「がんは長期的な慢性疾患だ」という医療者からの積極的な発信が重要だと思います。また、個人レベルに留まらず、企業への理解も促す必要もありますね。 

 

 

コロナ禍前は、各地のがんに関するイベントに参加。
リンパ浮腫の勉強会や、障害年金のセミナーなどを通じて、多くの方と関係を築いてきました。

 

 

物事の良い面だけを見る「ナラのシカ理論」

編集部

大塚さんは、治療後の孤独感のなかで、ドイツやオーストリアを旅行し、患者会や勉強会にも積極的に参加されています。辛い気持ちを抱えながら、前向きな行動を起こせたのはなぜでしょうか。 

 

ハンブルクにて、ドイツのパパ・ママのような存在のふたりと。
私ががんになったことを知っていて、会いに行ったことをとても喜んでくれました。

 

 

大塚

ドイツやオーストリアへの旅行は、半分やけっぱちでした。同病の友人の再発や悪化を目にして、「残された時間があまりないなら、動けるうちに好きなことをしよう」と思って。 

治療卒業後は、ずっと孤独感に悩まされていたわけじゃなく、旅行で元気になり、帰宅して孤独に苛まれるという気持ちの波を何度も行き来しました。そんななか、私が編み出したのが、「ナラのシカ理論」です。

 

編集部

ナラのシカ理論? 

 

大塚

物事には必ず良い面と悪い面があって、なるべく良い面だけを見るという考え方です。例えば、抗がん剤の奏効率が50%と聞いたら、「50%『なら』効くはずだ」と考える方が、「50%『しか』効かないのか」と考えるよりも、予後が良いそうです。私はどんな物事も、『なら』で捉えるよう心がけています。 

この考え方を編み出したのは、二分脊椎症による下肢麻痺や直腸障害があるなか、大学時代に精巣がんに罹患された、鈴木信行さんの講演を聴いたのがきっかけでした。今以上に障害や休学がマイナス評価になった時代ですが、彼はむしろそれを強みとしてPRすることに成功。就職活動の際に、「小さい頃からいろいろ病院にお世話になってきて、大学卒業時点でこれだけ医療に関して知識と経験がある人材は他にいない。私を採用しないと損ですよ」とPRして、ハンディキャップを物ともせずに大手製薬会社に内定したそうです。 

その話を聞いて、身の上に起こることは変えられないけど、捉え方次第で何事もプラスになると気付きました。  

 

副作用と闘いながら予約を取ったオーストリア旅行にて、ザルツブルク祝祭大劇場の前で。
治療直後の短い髪に、ウィーンで買ったお気にいりの帽子を。

 

 

納得して良い商品が買えるお店を。「リンパレッツ」の誕生 

編集部

「ナラのシカ理論」に基づき、大塚さんは自分のキャリアやスキルを活かす道として、弾性スリーブやストッキングを扱うお店の開業を考えられたのですね。 

 

大塚

卵巣がん患者会やブログで多くの患者さんと交流するなかで、リンパ浮腫に悩む人が多いと知りました。私自身も、術後はリンパ浮腫の前兆のような状態になり、今も発症のリスクを抱えています。みんな、情報不足をはじめ、履き心地やサイズなど「納得できる商品が買えない」と悩んでいましたね。業者さんからの商品の説明には、心地よさや扱いやすさなどがあまり出てこず、エンドユーザーに目が向いていないと感じていました。 

 

数多くある商品は、実際に自分が身に着けて、履き心地や特徴を確認。
着用写真のモデルや撮影もつとめます。

 

 

そんななか、旅行先のドイツで高品質な弾性ストッキングに出会えたんです。しかも、計測やカウンセリングを受け、試着してから買えました。その経験から、「日本にも、自分に合う商品を納得して買えるお店を作ろう、自分は患者目線からお客様の商品選びをサポートしよう」と思ったんです。 

 

ドイツから2度も来店くださった原発性リンパ浮腫のお客様。
ご提案した中には、「ドイツ製だけど見たことがなかった」という商品も!

 

 

編集部

2017年に開業した「リンパレッツ」では、一人ひとりのお客様のニーズを丁寧に把握することで、お客様から「ぴったりの商品が見つかった」と、嬉しい言葉も頂くそうですね。 

 

大塚

そうですね、リンパレッツではお客様との出会いを大切にしています。あと、患者さんは、1つのことに困っているわけじゃないので、弾性スリーブやストッキングのこと以外もできるだけサポートしていますよ。 

例えば、お客様のなかには、復職を控えて会社との交渉を控えている人もいます。交渉が苦手な方も多いので、監査法人で培ったコンプライアンス分野の知識や経験を活かして、情報提供しています。弾性着衣の保険請求手続きについても、お伝えしていますよ。  

 

お客様とのコミュニケーションを大切に。
明るい顔で帰っていただけると、やりがいを感じます。

 

 

編集部

弾性スリーブやストッキングの提供だけでなく、さまざまな側面からお客様を支えていらっしゃるんですね。最後に、今後の「リンパレッツ」の夢や目標を教えてください。 

 

大塚

今後は、リンパ浮腫によるむくみだけでなく、老人性のむくみや、進行がん患者のむくみにも対応できるお店にしたいです。 

リンパ浮腫に関しては、症状や部位のバリエーションがあり、まだまだ対応しきれていないと感じることもあります。どんな症状の方にも合う商品を提供するために、今後も商品ラインアップはもちろん、医療者や患者団体に教えて頂いて私自身の知識もアップデートしながら、多くの患者さんを支えていきたいです。  

 

たくさんのサンプルを前に、リンパ浮腫治療に携わるセラピストさんと。
医療者の方との連携も大切にしています。

 

 

Editor‘s Comment

大塚さんは、実際にお話を伺うとチャーミングなだけでなく、逆境にあるときも「今できること」を真摯に考えて行動に移せる、強い芯のある方でした。
大塚さんは、リンパ浮腫で日常生活に制限があるお客様に対し、弾性スリーブやストッキングだけでなく、「ナラのシカ理論」の「これならできる」という生き方を提供されていると思いました。その背景にある、大塚さんの生き方や努力に触れて、「今後壁にぶつかったときも、自分にできることを、誠実に取り組んでいこう」と改めて感じました。(ライター・笠井)

 

 

<文:笠井ゆかり>

 


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